子供は怖さを知らないから、いろんなことができる。
死を覚悟した大人も、もう怖くないからいろんなことができる。
でも、いつかは死ぬんだもんなぁ〜。
それを考えたら、何をやっても怖くないはず?なんだけど。
出来れば明日も同じように生きていたいと思うから、
そうじゃない未来を想像するのが怖いから、
いろんなところで守りに入っちゃうんだろうね。
ほんとは、何だってできるはず。
でも、怖いという思いがそうさせてくれない。
冒険をしなくても、安らかに命を長らえることができる、
そんな安心感も停滞のもと。
もし、自分の原動力が、恐怖ではなく希望だったら。
死に対する恐怖が、希望に変われば。
世にある宗教は本来そんな役割だ。
『夢は信じればかなう』というのも、
恐怖を希望に変えるための、やや強引なおまじないだ。
もし、自分の原動力が、恐怖ではなく希望だったら。
怖いものについて考えてみると、
ほんとうにそれが怖いのだろうか?と感じることもある。
結局、自己イメージの崩壊をおそれているだけなのではないか?
という気がすることある。
自分が自分に対して持つ、自己イメージ。
他者が自分に対して持つ、自己イメージ。
他者が自分に対して持つイメージは、
それによって処遇が変わることもあるから大問題だ。
…しかし本当にそうか?
本当に他者は、自分に対してそう思っているのか?
これは割と、自分のこだわっていることに左右されやすい。
自分の中で、善悪にこだわっていると、良いか悪いかで見られていると感じる。
自分が外見にこだわっていると、見た目で判断されていると感じる。
自分が能力にこだわっていると、能力で判断されていると感じる。
でもきっと、人のつながりなんてものはホントに複雑で、
でもって、ほんとはもっともっと単純なものだ。
ただつながっている、今、ともに進んでいる、
それだけで答えはあるようなものだ。
人は自分に対して本当にそう思っているのか?
自意識過剰、という言葉があるが、
自己イメージが強すぎて、他者にそう言わせている場合もある。
他者が何も言えなくなっている場合もある。
言葉を真に受けるのと、真面目に受け止めるのとは違う。
これはちょっと考えてみる価値はある。
自分に対する自己イメージが強すぎる状態も厄介だ。
自己イメージが強ければ強いほど、その道を外れることにも敏感だ。
今までのイメージを持ちつづけることにこだわる。
でも自分の気持ちとは裏腹に、冷静に事態を把握している部分は必ずあって、
未来の自己イメージは無意識にその都度修正されている。
無意識のその働きに気付かずに、今までのイメージを通そうとすれば、
無理が生じて歪み、真っすぐ歩けなくなる。
現在、今、この瞬間にしていることが、未来の自分をつくる。
それは当り前のことだけれども、
現在、今、この瞬間の自分は、無意識の部分に一番大きな影響があるのだ。
という大事なことは、考えられていない。軽んじられている、と感じる。
今この瞬間、行動することや行動しないことで、
未来の自分のイメージを自分の好む方向に持っていけるかは自分次第だ。
そして、それは、『いま出来ることをやるかやらないか』
それだけにかかっているのだ。
こわい
と思うのは、自己イメージにとらわれすぎているからではないかと思う。
『自分』なんて、あるようでいて、無い。
そう思えば、自由になれるんじゃないだろうか。